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- トップハート物語(36)苦闘開業編
- 10/09/01
- 期待の6月月末依頼7月スタートと思い描いた仕事依頼は音沙汰が無かった。7月に入ってもケアマネジャーから全く連絡が来ない。あの、応対してくれたにこやかに今でも仕事を出しそうな素振りをしていたケアマネジャーを思い出して、その顔を信用した自分が馬鹿だったと反省した。この地域の、挨拶代わりだ。きれいな写真入りの印刷物ではなく、パソコンでの文字ばかりの手造りのパンフレットでは信用が無いのかも知れない。そんな思いに駆られた。あれほど、いつ始められるのかとせいて始めたのに、介護依頼が全くどこからも何の音沙汰もない。自信の裏返しで急に自信が無くなり、落ち込んでいるところに社長の大声の叱責が追い打ちを掛ける。そんな日々が、数日続いて私を郷愁感が襲う。私には役員として、一般的に見ても多額の報酬が支払われていた。重圧を感じて、気づくと深夜バスに乗り込んでいた。早朝東京に到着し、そのまま新設される有料老人ホーム求人説明会会場に向かっていた。何百人という多くの人が会場に詰め掛けて説明を聞いていた中に、「私」も座っていた。面接だけの試験があり、終わるとそのまま東京駅に向かって再び深夜バスに乗り込んだ。やはり、全く見知らぬ土地では難しいのかも知れないと、気弱になっていたのだ。
戻ると、再び営業活動を始めた。M市に拠点を構えて、M市は勿論K市、D市、N市、H市の中にあるまだ回り切れない居宅介護支援事業所を軒並み訪問した。後から分かったが、他の訪問介護事業所はファックスを居宅介護支援事業所に送信するのが営業基本姿勢だった。私は、営業経験が無いので効率が悪かったが相手先に連絡して時間を取って貰いお会いしてお話をさせて貰った。今から思うとその蓄積が、将来に繋がったのだ。営業品目に、最初からある「出張理美容」やまだ始まってもいなかった障害者への自費によるガイドなどを付け加えた。10年後取り消しされる大手訪問介護事業所のあの不埒な取引依頼がきっかけだった。勿論、正常な援助が目的だ。
そんな時、あの美容師から依頼のあったO県人会が開催された。2000年6月17日の事だった。会場を貸す条件は、1日5000円と、冷房費3000円。それと、バザーも同時開催するのでその売り上げの30パーセントを頂く事にした。当日は、100人以上の県人の方と近隣の方が来て、O県の文化などに触れた。その一部分に、米軍基地問題を取り上げて演説をし始めた者が居た。後から知ったが、その者は政治活動家だった。隣の市で長い間トップ当選を続けていた市議会議員だった。立ちあって居て危険な話を勝手にされて知らぬ間に利用されてしまった、怒りと戸惑いがあった。それでも、私にとっては収穫があった。実は、一緒に始めている管理者・「私」・常勤社員の他にヘルパーさんは居なかったのだ。当たり前といえば当たり前だ。何故なら、介護の仕事が全く無いのだ。その時に、認知症の旦那さんを連れて来た奥さんが、社会福祉協議会の登録ヘルパーさんで、当社が介護事業所だと知って登録してくれた。そのあとに、知人のヘルパーさんを紹介してくれた。当社には仕事がないが、実質2名のヘルパーさんが増える事となった。
大盛況の、O県人会は終わった。後片付けを終えて、美容師が帰る時に会場を貸した代金をどうするのか、返事がなかった。その後も全くなかった。僅かに、O県の物産を置いて行っただけだった。騙されたのだが、彼には「訪問理美容」でお世話になっているし、「私」が実質電気代などを支払っている訳ではないので、経費の面からは我慢できた。しかし、このようなスタイルが、この地域の当然の行動だとはこの時点では知らなかった。金銭でも貸した時点で、戻って来る事は無く諦めるのが通例だと後から聞いた。
その間、住宅改修も工務店と提携して加えた。工務店に、市へ住宅改修業者との届け出をさせて、私が書類を持ってケアマネジャーや理学療法士に意見書を書いて貰い写真を写して、図面を添付して申請をする。改修の許可が下りたら、再び完成の届け出を提出して入金となるのだ。その、3割を手数料として貰う。
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