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- トップハート物語(31)苦闘開業編
- 10/08/27
- またたく間に、一月が過ぎようとしていた。ゆっくりも出来ない。まだ指定が下りていないが営業をしてみようと思った。どんな感触か肌で感じたかったのだ。
名刺を作成するお金がないので、コピー用紙に名前と住所と電話番号を書いて名刺大に切り取り持って出た。ある居宅介護支援事業所に行くと、
「指定番号が下りてから来てくれますか。」
と、私が渡した不審な手書きのコピー用紙に書いた名刺を返した。
当然なことだが、その時は必死だったのだ。
哀れに思った事業所もあり、話を聞いてくれた。
毎月1日が介護保険の指定日だという。この2000年5月のひと月、色んな事をして、活動をして来た。既に、4月に介護保険制度は始まっているのだ。その時点で、介護を必要とした方が180万人。その時点で参入していなければ、その180万人はどこかの事業所が受けてしまう。その意見も創業者である社長に受け入れられずに、早くて制度施行2か月後の6月1日からだ。その時点で、利用者は居るのか。まだ指定が下りるまでに日にちがあり、緊張感が切れる時がある。その時には、あの光景を思い出して自分を励ます。
『部屋に入ると事務机はあるが中身がない。コピー機もない。書籍の類や参考になるものが何も無くなっていた。運営に必要なものは、私たちが休んでいる間に、全部持ち去られた。社長の仕業だが、平気な顔をしていることにした。』
「金は出さない。家賃だけは払ってやる。あとは勝手にしろ。」
そんなことを言っていた。何度もどうしてそんな事をするのか考えてみた。どう考えても合点がいかない。社長自身の会社であり、オーナーだ。営業結果が自分に跳ね返ってくる応報に何を目的としてそのような事をするのか分からない。そんな事があるからと言って、「私」の家族に心配や退職などしてその収入が途絶えるなど精神的にも迷惑を掛ける訳に行かない。しかし、運転資金をストップされては万事休すだ。又思い返す。それにしてもどうしてこんな事をするのか。三顧の礼を受けて、就職が決まっていた企業を蹴ってこの地まで単身赴任して来たのに。決まった会社を断るという事は、ポリテク埼玉の私の後輩に多大な迷惑が掛かるのだ。そんな事を思い、結果的には仕業の目的が分からないというのと、剣道で鍛えた負けまい、勝つためにはどうしたらいいのかという根性と思考が蘇って来た。そんなギリギリの精神状態から次々考えたうちの一つは、「芸は身を助ける」ということわざを地で行った。身に着いた自然帰結だった。「私」は小さいころから家事を手伝っており、特に調理は毎日していた。好むと好まざるとに拘わらず、それに加えて中学生の頃から一人での生活も長かった。毎朝、新聞配達をして帰って来るとご飯を炊いて、おかずを作った。その頃は、かまどであり、隣の東北大学の敷地に枯れて沢山落ちている杉の葉を拾って来てくべ、新聞紙に火を点けて放り込む。杉の葉に点火して、暫くして薪をくべる。そんな事を毎日していたし、夜も母親が仕事に出ているので学校から戻って来ると食事の準備を進んでしていた。中学になると、家庭の不和が私の精神状態に良くないと、困窮していたのにも拘らず母親が、大家さんの隠居さんが利用していた一軒家を格安で借りてくれた。高校を卒業するまで6年間、一人の生活が続いた。就職して神奈川県川崎市の寮に入ってもすぐに出て、東京は品川区にアパートを借りて住んだ。それから、結婚するまで4年間一人住まいで自炊していた。結婚してからも、自分で料理を作っていた生活の過程があり調理には自信があった。
だから自然発生的に運転資金稼ぎの一つに考えたのは、弁当販売だった。その行為は楽しかった。安定した会社運営をしている今でも、あの時を思い出す。自分の体を使って資金を得る事に何も躊躇しなかった。その時には午前中は周りのスーパーなどのバーゲン品を朝刊に入っている折り込みチラシで安く買える食材を選定し調達してアレンジして弁当を作り販売した。
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